三歩進んで二歩下がる

日々感じた事の言葉日記です。

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双子

昨年末に双子が誕生し、家族が5人となった。
喜びと共に不安もあり、責任を一層感じることとなった。

何のために生きているのか?家族を養うために生きているのか?時々わからなくなる自分
仕事にも責任が増えつつある中、何のために働いているのだろう?と思う時もある。
自分に挑戦した20代を経て、30代は家族を作り、親になり、よくわからない荷物を背負う日々

今年は39歳となる。30代の最後に何を考えて過ごすか、もう一度問いかけ直したいと思う。
人生はちょうど折り返し地点を迎えるが、まだまだやらなければいけないことがあるはずで。

子供たちはとても可愛く、一緒に時間を過ごしているだけで幸せを与えてくれる。
ただ、それは自分という個人にとって、本当の活力なのか疑問でもある。
子供は子供であり自分は自分である。自分の命は子供のためにあるわけではないだろう。
子供たちが、将来力強く独り立ちできるまで、自分は育て支える。それが子供への愛である。

良い未来が待っているのかどうか、甚だ自信がないものであるが、強く育ってほしいと願う。
心配は尽きないのだが、何事もなるようになるしかないわけであり。


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子供

タイトルが平凡であるが、それ以外に巧い言葉が見つからない。
今日、子供が産まれた。何か記録しなければならないという強烈な衝動に駆られる。
産まれたばかりの子供の鳴き声が、今も耳にまとわりつき離さない。

自分の遺伝情報を持った別の生命がこの世に誕生したという事をどう理解すれば良いのか。
産まれるまで、そのような至極概念的な形而上観に捕われすぎていたような気がする。
不意に産まれてしまうと、一体これは何なのだろうという了解できぬ思いで埋め尽くされる。

まだ赤みを帯びた肌、目も開けられぬ中、辛そうに小さ体を震わせて泣く様。
手足を大きく動かして、右も左もわからんと全力で自己表現を徹底的に繰り返す様子には
冷静な思考をぶち壊すのに十分過ぎるものであり、正直打ちのめされる思いがした。

その誕生を様々な人が喜んでくれるというのは、生命の神秘、人間の根源的喜びなのだろう。
まるで、人生の一ページを大きく破って更新したかのような潔さを自分にもたらす。
こうやって、綿々と人間は遺伝子を紡いで来たのだろうと思うと、ただただ感慨深い。

早くこの手で触って、実感のあるものとして理解しなければと。

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世界に触れる

昨日、寺島実郎塾なるものに行った。わざわざ会社が行ってこいと言ってくれ。
特段目新しい話を聞く訳ではなかったが、いくつか考えさせられる事があった。

寺島さんは曰く
今年の夏は節電節電騒ぎませんでしたね。その電力を支えたのは、天然ガスです。
特に中東のバカ高いガスです。昨年度、日本は6兆円もの国富を中東に流出させました。
今年はそれ以上のお金を支払う事でしょう。でもそのお金が、カタールを世界一豊かな国
させています。日本の一人当たりGDPの6倍の金持ち国です。
そのカタールは、イギリスのバローズという老舗百貨店を買収しました。
それだけなら良いですが、シリアの反政府組織に支援を行っているのもカタールです。

要するに、我々が電気を無駄に使う事で、シリアでの内戦も激化する。
サリンによって大勢の人が殺されている・・・その一役を我が日本人も買っているのだ。
自分たちの無駄遣いが、紛争に繋がるとはにわかに信じがたいが、嘘ではないだろう。

寺島さんは、外は広く、内は深いと言う。若者よ外へ出なさいという。
世界は驚くほどに身近である一方、知らない事がたくさん存在する。それに触れよというのだ。
その場に留まれば、何も気付く事なく、大事な事を知らずに生きてしまう老けてしまう、
そう言いたいのだろう。

僕は10年も昔になるが、ある狭い世界ではあるが、世界に触れながら生きた頃がある。
あの頃は刺激的だった。本物の人間を何人も目にした。その日々は辛いものだった。
けれども充実した日々でもさった。あれほどに本気になった日々はもう来ないだろう。
あの日々に考えて考えて考え抜いた事が、今の自分を創っていると言っても良い。

さて今の自分はどうだろう。少しは成長したのだろうか?
確かに見たところ触れる世界は広がった気がする。世間慣れもしただろうか。
けれど、ちっとも世界と触れている気がしないし、感じることができていない。
組織という軍隊のような規律社会にいては、人間は飛び抜けた思考をする事が難しい。
多くの仲間達を見ていても、世界を能動的に触れようとする人など居ようはずもない。
受動的な人生を歩む人がほとんどである。そこに問いかけたい気持ちが湧いてくる。
日本のため?会社のため?組織のため?人のため?

一体全体何のために働き、何のために生きているのだろうか?
気がつけば自分でさえもいつの間にか、当然の問いかけをせずに生きてしまっている。
歯を食いしばって生きた頃、毎日が迷いの連続であり、問いかけの連続であったのに。
今のような人生はつまらない、そう格好つけたいとは思うが、ではどうしたらいいか?
時に諦め、時にダダをこね、時に悔しがり、時に笑う。

自分の芯がブレくると、そのような単純な事ですら、難しくなる。
一事が万事、人のせいにして生きるようになる。自分が見えなくなりながら。
人生は問い続けることが大切だ。世界に触れながら、心を広く、そして深く。

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デジタルの世界

今の世はデジタルの世界となりつつある。
あらゆるものがデジタルに変換され、それを通じて我々は理解できる。

世界のニュースは全てデジタルで脳に入力され、デジタルを作った人の意識に
我々は洗脳されている。
そのため世界で繰り広げられる多くの戦争についても、その悲惨さを感じることができない。
福島の原発問題ですらデジタルで脳に入力されているため、既にその悲惨な事実を忘れ始め
原発再稼働に何の疑問を感じなくなっている。

中国や韓国との歴史問題の摩擦についても同じである。
確かに我々には我々に理屈があるが、相手にもそれなりの文化や理屈がある。
言葉でそれを喝破しようとしても、人間は理屈でねじ伏せられるものではない。
それぞれ、言語化された情報でしかインプット、アウトプットできないとそのようになる。

世界の素晴らしい景色も、どんなに優れた映像で表現を通しても伝えることはできない。
子供の誕生の感激は、どんな優れた文章を通しても表現することはできない。

人間の感性はデジタルではなく、アナログである。
だから直接アプローチをしなければ何もわからない。



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flexibility

大切にしている言葉として、flexibilityというものがある。
即ち、柔軟性である。

大リーガーのイチローが、筋肉をつけ過ぎると打球の飛距離が落ちたという事を話していた。
体のflexibilityが落ちてしまい、自分の持っている能力を発揮できなくなったという。
これは、脳みそにも同様に当てはまる事だと思う。

以前、バカの壁という本が流行った事がある。
人間は知識をつけすぎて、賢くなりすぎると、バカの壁を作ってしまうというものだった。
考え方としては、イチローの話に似ているなと思う。

私が考える脳みそのflexibilityというのはまた少し違う。
いかに、自分と違う考えを許容するかどうかというのが、脳みそのflexibilityと思う。
アメリカ人を見ていると、このflexibilityがとても長けている様を目にする事がある。
相手の言う事を全て、徹頭徹尾理解するという訳ではない。

アメリカという社会は多様性の社会である。
であるから、人と人は違って当然であり、違うという事が不快感を醸成しないのだろう。
日本人のように、”常識”という言葉を連発しないのである。
相手を常識だといって、頭ごなしに押さえつけようなどという事が一切見られない。
それが故に、もめたときは全て裁判所にいかないと解決しない訳であるが。

逆に割り切りも早く、会社にフィットしない人間は簡単に首を切る。
合わせる作業をするだけ時間の無駄であるからだ。
それよりも、会社の方向性を大切にするという事なのだろう。
無理に人を期待しすぎないというところも、肩の力が抜けていて良い。

flexibilityのない社会は、閉塞感が漂い、何者かにがんじがらめにされているかのようだ。
本来持っているはずのポテンシャルが発揮できない社会には、柔軟性が欠けているのだ。



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品格

30も半ばになってみて品格とはなんだろうかと考えてみる。
男性だろうが、女性だろうが、どういう姿勢に品を感じるかと言えば、
一歩下がった姿勢なのではないだろうかと想像する。

一歩下がったとはどういう事かといえば、決して自己主張をしないという意味ではない。
自己主張をせず、空気のような存在の人にはそもそも気配を感じる事がないわけである。
自己主張をしながらも、一歩下がった姿勢がその人の醸し出す品ではないだろうか。
実に定義として難しい。

では逆に品がないとはどういう事だろうか。
品がないというのは、人間の欲が公然とむき出しになる様ではないかと思う。
下品な会話が良い例で、内から湧いてくる欲求の元に口から言葉を発してしまうようなものか。
セクハラを代表とする行為というのは、単なる欲望に過ぎない。
言葉の暴力でも、時に人を傷つけたくなるという人間の性なるものだろう。

性欲、食欲、睡眠欲といった基本的な欲求がむき出しになってしまうと、どうも品がないとなる。
ご飯をガツガツ食べたり、ミーティングで居眠りをしてみたり、そういう様である。
女性では、チョコレートやお菓子といった甘い物に簡単に釣られてしまう姿、
おしゃべりの止まらない姿というものは品がない。

では、品がある人に戻ってみるが、そういう人は欲望が無いのだろうか?
いやそうではないように思う。欲望は程よくコントロールできているのだろう。
自分の我欲は抑えつつ、欲の働かない興味のわかない事に対しても、丁寧対応が出来る人ではないか。

そう考えてみると、自分もまだまだ品格の足りない発言が多いなと思うこの頃である。


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褒めて伸ばす

最近、褒めて伸ばすという話をよく聞きます。
後輩の中には、私は褒めて伸びるタイプなんで・・・という自己申告をする
馬鹿野郎な人間もいます。

上司も、叱っても仕方ないと鼻から諦めてしまっている方々もいます。
褒めて伸ばした方が人は伸びる、なんて事を心理学の専門家が発言する体たらくであります。
私は、どうしたものかと悩みます。何故もこう弱い社会なのだろうかと。

私は人を褒めるのが苦手かもしれません。
努力する人を褒めるのは好きですが、そうでもない努力を褒める気にはなれません。

確かに褒める事で本人のやる気が増し、良いスパイラルに入る事はあると思います。
それは褒める事の最大の効果でもありましょう。

しかし、褒める事で人の成長に必要なものが必ずしも満たされるわけではありません。
褒めて伸びるタイプといっているのは、つまり、褒めてくれないと力が出ないという事です。
これは人間として致命的な欠陥なのです。

人を褒めるには、その人が何を考え、どのように行動しているのかを知らなければなりません。
でもこれは人間関係において無理な要求です。人は、他人の事をほとんど知らないのですから。

真に成長した人間というのは、人が何を言おうが自己を確立できる人間です。
自己の確立こそ、人が孤独と遭遇した時に脱し得る力になります。

弱い人間を叱っても駄目だという人がいます。
ですが、私は弱い人間ほど叱ってあげる事が必要だと思います。
褒める事でその人の弱さを覆い隠してしまえば、いつか孤独の闇に包まれてしまいます。
間違っていないよ、なんて言葉をかければ自分の間違いに気付くきっかけを逸してしまいます。
そうこうするうちに、老いという筋肉硬直がやってきて人と協調できない心にしてしまいます。

人と他人というのは、別人です。
同じ価値観が大切なんて言いますが、それでも何かがちょこっと合っている程度です。
相手の事を100%分かる事なんてないのです。阿吽の呼吸を発揮する夫婦でさえも。

だから人間社会をよく営むためには、人と強調する柔軟な心が必要であり、
そのためにも常日頃筋肉を解してあげるような柔軟体操が必要なのです。
人と意見が合わない、うまくいかないなんて事は仕方の無い事です。
それらを受け止めて、ではどうしたよいかと考える事が大切だと思います。

褒められないと行動する事ができないのであれば、褒められない事はやらないという事です。
馬が合わない、生理的に受け付けない、等の理由を許してしまえば惨めな老いが待っています。
今の社会がもしそういうものを認めようとしているのであれば、日本は弱い社会へ向かいます。

昔は、おせっかい焼きのご近所さん、先輩が社会にはいたようです。
それはそれで面倒であったかもしれません。
しかし、今の社会はそのような面倒がないが故に絆の弱い社会です。
インターネットを使って人を誹謗中傷し、普段言えない事の憂さ晴らしすような社会です。
実社会で本当の事を言うと白目を向けられるからです。実に弱い社会です。

人間は違うもの同士です。
だから喧嘩もしますし、怒ったりもします。
違うものが共感し合うから、感動したり感謝したりできます。
それらを素直にやれば良いし、それが人間の素直な成長を促すはずだと私は思います。

よくやったと思えば、素直に褒めれば良いのです。
心に濁りがあって褒められないのであれば、その時は自分自身を叱らなければなりません。
そもそも褒めて人を伸ばそうなんて言うのは、人間としての傲りのような気がしてなりませんが。



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結婚

結婚は、相手に何かを望むのではなく、相手に何かをしてあげたいと気持ちで成立する。


以前、恋と愛の違いを定義したことがあります。
豊かな愛を

好きというのは
その人がもつ絶対的な美的センスの反応である

愛するというのは
一己の独立した人間の持つ弱さへの格別超越した情なのである


と、まあ随分と難しい表現をしました。
今になって思うのは、そのような鋭い切り口の定義ではなくもう少し柔らかな。

愛って、愛しているって言葉で言う事でもないし、
愛してると言われて喜ぶという刹那的なものでもなく、
相手に、何かをしてあげたいという思い悩む気持ちなのだと思います。

それは、恋人への愛、家族の愛だけではありません。
他人への愛においても同じだと思います。


人と仕事をするようになって思う事があります。
それは、皆、愛が足りないなという事です。

自分の仕事はこれ、と自分で仕事の範囲を決めてしまう人がいます。
勿論、世の仕事の中には仕事の範囲が明確に決まっていて、それ以上の事をしてはいけない
そんな種の仕事も存在する事は存在します。

ここで話しているのはそのような仕事ではなく、一般的な知的生産性を要する仕事の事です。

そのような仕事では、仕事は自分自身が決めるものではないと思います。
仕事は、周囲が望むべきものであると思います。周囲に貢献する事が仕事だと思います。
そのような仕事をするためには、愛が足りていない状況では難しいでしょう。

周りに何かをしてあげたいと思わないと、きちんと仕事をこなす事はできません。
会社は、社会に何かをしてあげたいと考えないと、良い会社になる事はありません。
至極当たり前の事なのですが、至極当たり前の事に気付かなくなる事があるのです。

当たり前に仕事を与えられていると・・・
当たり前にパートナーが存在していると・・・
いつの間にやら愛の存在を忘れてたりしませんか?

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権利と義務

「権利と義務は裏表」

ピータードラッカーの言葉だったろうか、正確な言葉を忘れてしまったが。
私は次のように理解している。社会的な人が持つ権利の大きさは、義務の大きさと同じである。
言い換えれば、権力がある人間はその力に応じた高い使命を持たなければならないし、
高い責任を持たなければならないという事である。

政治家のように権力を持つ人間は、高い使命感と責任を持たなければならない。

では、会社ではどうだろうか?
会社にも権力というのが存在する。ただ、あまり権力という言い方をしない。
逆に、義務や責任の対価が給料や報酬であったりすると思う。
そう考えた時に、日本の企業で最も割を食うのが中間管理職である。

1000万円で働く課長、2000万円で働く部長がいる。
2000万円で働く部長は、それに応じた権利(決裁権、人事権)を握っている。
だが悲しい事に、それに見合った義務や責任を果たす部長は数少ない。
そのしわ寄せは、大抵が課長に向かう。

500万円で働く若手社員が3人いる。能力は、上、中、下である。
500万円で働く上の社員は不満を課長にぶつける。何故、自分は評価が低いのか?と。
500万円で働く下の社員は自分が成長しない事を上司である課長のせいにする。
下の社員が成長しない責任を部長までもが課長のせいにする。

これでは、有能な課長は潰れてしまう。閉塞感が漂う。

この閉塞感を打開する方法は一つだと思う。
部長が良くも悪くも責任を取る事である。2000万円に見合った、責任を取るのである。
給料でいうと嫌みが出る訳だが、つまり、自分の権利に見合った責任を取るべきなのだ。

能力上の社員をきちんと評価し、能力下の社員については、その社員が成長しない責任を
課長の責任にしないことだ。
もし、能力下の社員が成長する事を拒むのであれば、それをマイナス査定し、
悪いケースにおいては首にしなければいけない。部長の責任で。

日本社会が右肩上がりで、給料の定昇が確保されている時代であれば、首にする必要は
無かったのだと思う。知的生産性を高める事無く、ルーチン処理の効率を高めれば成長を
享受できるというのであれば何も苦労はない。

しかし今の日本社会は、成長を渇望している。そのためにも、知的生産性の向上が望まれる。
社員一人一人は、考え続けなければいけない。新しいものを創造しなければいけない。

そんな場合、部長がニコニコと笑って、誰からも好かれるような態度ばかりしていては駄目だ。
嫌な役を買って出なければならないし、そのための権力なのだと思う。

それは何故か?
世の中は自己責任であり、サバイバルなのである。会社が死んでしまえば皆終わりなのだ。
日本から戦争は無くなったけれど、世界では未だに戦争は無くならない。
経済社会に限って言えば決して戦争は無くならない。人間は残念な事に争う事から逃れられない。

それを真とした時に、我々は基本的な問いに戻らなければならないと思う。
会社はなんのためにあるのか?という問いかけに。

私の答えは、会社は、社会の公器として存在する。
社会のために、社会が要求するものを産み出していかなければならない。
社会の要求を満たさず、社会のためにならなければ、会社はその生が終わってしまうのだ。
会社は決して個人のためには存在するのではないと思う。ましてや特定の社員のためにない。

責任を持つ人は、自分の権利を何のために使うか、何を守るために使うのか考えなければいけない。
会社が傾いて始めて、リストラという大量無差別解雇を行うのは、
権利を持つ人が適切に権利を使わず、自分の保身のために権利を使って来たからだろう。
そのために、責任のない大量の社員が割を食うのは全くおかしな事だと思う。

向上心が無い、貢献意欲が無い、協調性がない、それを無能という。
スキルが無い事は無能なのではない、スキルは時間をつければ身に付くのだから。
そうではなく、会社が社会に貢献するため必要な能力を発揮するかどうかが、有能と無能の違いだ。

何故、無能な社員に会社は報酬を払わなければならないか?それは間違いだと思う。
報酬を受け取る社員は、有能な社員になるべき義務が発生する。
つまり、給料をもらう権利が表なら、会社にとって有能であろうとする義務は、その裏である。
自分が有能であるか、問いかけなければいけないと思う。


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見たいもの、見えるものを見て、見たくないもの、見えないものを見ない。

「見たいもの、見えるものを見て、見たくないもの、見えないものを見ない。」

おそらく、多くの人がこれに当てはまる。
逆に、見たくないものを見て、見えないものを見ようとする事はとても大変であり
これを能動的にできる人はとても強い精神を持っている人だと思う。

時々、後者の人に出くわす事がある。
この人は、見たくないものを直視し、逃げない人だな。
この人は、見えないものを何とかして見ようと努力する人だな。
そういう人には、無条件の好感を抱く。

ただしかし、そういう人は危うさを持っている。
人が見ないものを見てしまうものだから、人との間で軋轢を生じさせ、
大きなストレスを抱える事もある。

だから、そういう人の味方にならなければいけない。


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