三歩進んで二歩下がる

日々感じた事の言葉日記です。

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GIFT

“一番きれいな色ってなんだろう? 一番ひかってるものってなんだろう?”
…この歌はこんな言葉から始まります。

言うまでもなく、オリンピックにおいて一番きれいで光ってるものは『金メダル』です。
でも僕は“金、銀、銅”という勝者にのみ与えられる輝きより、
もっと大切で、価値ある輝きが存在していると思っています。

勝利を収められなかった人の中にも、
また勝ち負けのない日常の中で一生懸命暮らしている人の中にも
どんなメダルにも負けない輝きが一人一人にあると思っています。

この歌が、皆さんの中にある輝きを見つけてゆく手助けになったとしたら
そんな幸せなことはありません

by 桜井 和寿



GIFT  
Mr.Children

一番きれいな色って何だろう?
一番ひかってるものってなんだろう?
僕は探していた 最高のGIFTを
君が喜んだ姿をイメージしながら

『本当の自分』を見つけたいって言うけど
『生まれた意味』を知りたいって言うけど
僕の両手がそれを渡す時
ふと謎が解けるといいな 受け取ってくれるかな

長い間 君に渡したくて強く握りしめていたから
もうグジャグジャになって 色は変わり果て
お世辞にもきれいとは言えないけど

「白か黒で答えろ」という難題を突きつけられ
ぶち当たった壁の前で僕らはまた迷っている 迷ってるけど
白と黒のその間に無限の色が広がってる
君に似合う色探して やさしい名前をつけたなら
ほら 一番きれいな色 今 君に贈るよ


地平線の先に辿り着いても
新しい地平線が広がるだけ
「もうやめにしようか?」 自分の胸に聞くと
「まだ歩き続けたい」と返事が聞こえたよ

知らぬ間に増えてった荷物も
まだ何とか背負っていけるから
君の分まで持つよ だからそばにいてよ
それだけで心は軽くなる

果てしない旅路の果てに『選ばれる者』とは誰?
たとえ僕じゃなくたって それでもまた走っていく 走っていくよ
降り注ぐ日差しがあって だからこそ日陰もあって
そのすべてが意味をもって 互いを讃えているのなら
もうどんな場所にいても 光を感じれるよ


今 君に贈るよ 気に入るかなぁ? 受け取ってよ
君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう


一番きれいな色って何だろう?
一番光ってるものって何だろう?
僕は抱きしめる 君がくれたGIFTを
いつまでも胸の奥で
ほら光ってるんだよ
ひかり続けんだよ



オリンピックの終わりとともに夏も終わったような気配であります。
秋雨前線が日本列島を覆い、ゲリラ豪雨は何もかもを流そうとしております。


GIFTはオリンピックソングですから、
ミスチルの桜井が上で話すような、オリンピックのメダルを意識した作品になっています。

ただ、そこに終わらないところが彼の心の身上であるような気がいたします。
特に、この歌は北京五輪が表現しようとした政治プロパガンダに対する
強烈なアンチテーゼのようにも聞こえます。

56もの民族色豊かな中華文明を謡いつつ、
そのほとんどが漢民族の子供たちであったという詐欺は、
軽薄な政治的スローガンを示しておりました。

何が何でも金メダルをとらなくてはならなかった障害物チャンピョンの劉の棄権
この反響の大きさは、独りの人間に何を背負わせていたのでしょうか?
中国四千年の歴史が敗者を称えぬ歴史、
易姓革命の歴史であることは彼らの遺伝的資質でしょうか。


期間前には新疆ウイグルやチベットへの凄惨なる弾圧を加え、テロのニュースが絶えず、
期間中にはすべてのデモ行動を封殺し、北京の各所にバリゲードを張り巡らし・・
それは、スーダンの大量虐殺政府への政治的軍事的援助を続ける中国共産党の素顔
そのものであったでしょう。

であるから、開会式の壮大で豪華絢爛なマスゲームは、ある種の恐怖を感じさせました。


そんな北京の喧噪を皮肉るかのように桜井は歌います。

  「白か黒で答えろ」という難題を突きつけられ
  ぶち当たった壁の前で僕らはまた迷っている 迷ってるけど
  白と黒のその間に無限の色が広がってる
  君に似合う色探して やさしい名前をつけたなら
  ほら 一番きれいな色 今 君に贈るよ

中華思想によるところの敗者とは何・・
人は手を取り合うことで何倍もの力を発揮できるのに・・
自分のためだけに生きることには限界があるのだから。

  知らぬ間に増えてった荷物も  
  まだ何とか背負っていけるから
  君の分まで持つよ だからそばにいてよ
  それだけで心は軽くなる

漢民族の侵略、文化の侵食は中国に光をもたらすのか・・
どんなものにも表と裏があり・・
そのバランスや調和の上で、人は生きている・・

  降り注ぐ日差しがあって だからこそ日陰もあって
  そのすべてが意味をもって 互いを讃えているのなら
  もうどんな場所にいても 光を感じれるよ


確かに、勝負の世界は勝ち負けが大きなウエイトを占めます。
星野ジャパンの敗戦は、醜いものに映ったように・・

また、世界の勝ち負けにおいても負けは許されないものです。
敗者は、勝者の歴史の下敷きになるわけですから・・

でも、そうだとしても・・
勝つことだけが意味あるものではないというのが
人間の深さであり、知恵であるのでしょう。

生物界の弱肉強食のような、単なる自然淘汰の原則が
そのまま人間にあてはまるわけではないのです。

人間には、白とも黒とも取れない、絶妙なバランスが存在するはずです。


「また勝ち負けのない日常の中で一生懸命暮らしている人の中にも
どんなメダルにも負けない輝きが一人一人にあると思っています。」

桜井のこの言葉がこの歌の本心ではないでしょうか。
オリンピックを通して、本当に一生懸命に頑張っているアスリートの輝きから、
僕らだって輝いているんだよって・・・
勝ち負けのない輝きが僕らを包んでいるのだと教えてくれているような気がします。

勝つことの輝きは確かに美しいのですが、
もっともっと温かみのある輝きというものが、
涙がとめどなくあふれてくる輝きがあるのだと・・・


ところで今日8月30日は、アヘン戦争を引き起こした林則徐生誕の日であります。
中国の歴史には、たくさんの偉人が登場しますが、林則徐もその一人です。

清廉潔白な林則徐は、今日の中国においても大変に尊敬される人物であるわけで
たくさんの文化と歴史を飲み込んできた、中華思想という形而上的な混合液は、
その化学反応のあり様をここで単純に計る事のできぬもののはずです。

オリンピックが去り、全体主義的喧騒から民主主義的な融和へ向い・・・
オリンピック自身が彼らのGIFTであるならばと。


僕も夢に見ていたい・・・

「今 君に贈るよ 気に入るかなぁ? 受け取ってよ
君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう」

君のためのGIFTを・・・
探す人生でありたい。


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幸せ

突貫工事で物事を仕上げたかのように、一次試験が過ぎ去ってゆきました。なんとか次の試験に迎えそうな出来でしたので、すこしほっとしております。

モチベーションがあがらないまま4月を過ごしてしまって自分を見失いかけておりましたが、そんな自分をなんとか引き戻せたようです。

頭の中でいろいろとわかってはいても・・体がちゃんと反応してくれるわけでもありませんし
自分がいくらできると思ってはいても・・出来ないことだらけの社会


幸せ

手と手のしわを合わせて幸せ。
子供のおまじないのようにも聞こえるが、
幸せというのは、案外そんなところにあるのかもしれない。

口裏でも合わせたように、
幸せを何億人もの誰をもが望む一方で、
ありふれた幸せに気付く事ができないでいる。

まるでそれが自明の理かのように、
幸せになりたいと多くの人が夢見る一方で、
人の見せかけの幸せに敏感になっては羨んでいる。

形なき幸せを、形成しようとし、
心ある幸せに、目を瞑ろうとする。
無知であるという幸せを冒涜し、
知を享受する事に優越感を覚えている。
「信じているよ」と幸せそうに声かけては、
裏切られる自分にびくびくと怯えている。

五体満足が幸せだとか、
喜怒哀楽に豊かなことが幸せだとか、
友達が何人いるかどうかという幸せだとか、

そんな人との対比に目くじら立てず、
等身大の幸せ、目の前の心豊かな奇跡の数々に、
砂漠のオアシスを見るような、そのほっとする想いを感じて、
幸せという言葉を付してみたいものだ。

温かな感謝を覚える事ができるというような、
親愛なる愛を感じ取る事ができるというような、
「ありがとう」という名の福袋を柔らかく抱きしめていたい。
あれこれたくさんの幸が、そこからきっと飛び出してくるに違いない。


ryo


2年半前の帰国時の頃・・当時の自分にとって苦しさの一つだったのが、
周りの人々の感覚について行けないことでした。

渡米で無駄のすべてを削り落したがためにすり減ってしまった心
帰国してからも論文を仕上げるために徹夜の日々を過ごしていた体
自分とだけ向かい合いつづけ、自分とのガチンコ勝負の毎日・・

独りのの心、独りの体、独りの戦い・・・

そういうことを続けてきた感覚が周りの空気を受け入れさせず、油をはじく水のようでありました。

友人の結婚式の二次会に参加しても、新郎新婦の仮面のように見える笑顔の幸せ・・
それを囲み恨めしい目で自分も続こうと息巻く、周りの人々が描く幸せ・・
自分とは異次元の場所にいるようなものに思えました。

飲み会でバカ騒ぎばかりし、無駄に酒を飲み続け、くだらないギャグばかり喋る人々
電車の中で携帯ばかりをいじっている人、携帯ゲームに夢中で周りが見えない人
世の中はいったいどうなっているだろう?と思いました。

あの頃の自分は、人と何かを共有できることがなく・・
独りよがりの幸せを、相手に押し付けていたのかもしれません。

当時付き合っていて好きだった女の子に・・
「友達といるときが一番の幸せ」と言われ、すごく落ち込んだことがあります。

あの言葉に、自分はどうしてああも過剰に反応したのかなぁ・・と今も振り返ります。
「幸せ」というものを自我が形にしようと求めていたのかな・・と。


「ありがとう」という名の福袋

というのは、まさに自分の描く幸せの姿のようなものです。
人に「ありがとう」と言われる自分は、幸せだと思います。
また、人に「ありがとう」と言える自分は、幸せなのだと思います。

「幸せ」は連鎖するというのが僕の心の中心にある考え方です。
独りよがりなものに、「幸せ」なんてものはないと思っています。

だから・・できればいつも人前では笑っていたいと思っておりますし、
それができなくなるのであれば、その場から消え去りたいとも思っています。


「ありがとう」と言われたときの、自分の喜びや、快感という類のもの
これがずばり「幸せ」だとは思うのではなく、「ありがとう」の連鎖が僕の中の「幸せ」なのです。
その広がっていく様が・・水に粉が溶け込んでいくような融和が・・
粉である時のスクラブが溶けることによって消えてその温もりに。


一つの悲しみも、共有することができ、感謝の気持ちを持って人に接することができるならば・・
これも「幸せ」と感じることができるはずだと思うのです。
何も良いことばかりが幸せでもないでしょう。

「ありがとう」なんて言うほどの事でもないよ!・・なんて人に対し
いや、「ありがとう」と言える自分は、そんな事を言う人よりもちょっぴり「幸せ」であるのだと思います。

当たり前に存在していることに感謝できるという事は、それだけで「幸せ」を連鎖させるものです。

「幸せ」は、求めてもそれが手に入るものではありません。
「幸せ」は、完璧なことでもないですし、ステータスでもないです。
容姿の美しさでもなければ、才能でもないです。

「ありがとう」という言葉が、魔法の杖のようにして「幸せ」を生み出すという事を想像したいし、
そういう事を自分が切に願おうと思うことで、自分の思う幸せに近づいていけたらいい・・
そうすれば今の複雑な思いも糧になると。


「幸せ」の鍵は、思いやりの言葉にあるのだろうなぁと思います。
あなたは・・幸せですか?

自分の心は幸せです・・と答えたい。
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タガタメ

タガタメ

作詩:KAZUTOSHI SAKURAI 作曲:KAZUTOSHI SAKURAI

ディカプリオの出世作なら
さっき僕が録画しておいたから
もう少し話をしよう
眠ってしまうにはまだ早いだろう

この星を見てるのは
君と僕と あと何人いるかな
ある人は泣いてるだろう
ある人はキスでもしてるんだろう

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し 瞼を腫らし
祈るほかにないのか?

タダタダダキアッテ (ただただ抱き合って)
カタタタキダキアッテ (肩叩き抱き合って)
テヲトッテダキアッテ (手を取って抱き合って)

左の人 右の人
ふとした場所できっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ

この世界に潜む 怒りや悲しみに
あと何度出会うだろう それを許せるかな?
明日 もし晴れたら広い公園へ行こう
そしてブラブラ歩こう
手をつないで 犬も連れて
何も考えないで行こう

タタカッテ タタカッテ (戦って 戦って)
タガタメ タタカッテ (誰がため 戦って)
タタカッテ ダレ カッタ (戦って 誰 勝った?)
タガタメダ タガタメダ (誰がためだ? 誰がためだ?)
タガタメ タタカッタ (誰がため戦った?)

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
かろうじて出来ることは
相変わらず 性懲りもなく
愛すこと以外にない

タダタダダキアッテ (ただただ抱き合って)
カタタタキダキアッテ (肩叩き抱き合って)
テヲトッテダキアッテ (手を取って抱き合って)
タダタダタダ (ただただただ)
タダタダタダ (ただただただ)
タダタダキアッテイコウ (ただた抱き合っていこう)



今週は社会的なニュースを多く目にいたしました。事の大小いろいろとありますが、硫化水素自殺、長野で聖火リレー、野村証券のインサイダー・・・

どれも関心事の高いものでしたが、その中でも「光市母子殺害事件」の高裁判決には注目しておりました。久しぶりに社会的な内容を書きたいと思います。

「優しさの訓練」では、この裁判の概要を書きました。

この裁判が終息に向かっている今、思うところを書き記しておこうと思います。

まず判決についてなのですが、予想通りというか・・・被害者サイドの気持ちの大部分を汲んだ判決になっていました。本村さんの9年間を考えれば、ほっとした気持ちが芽生える一方で、元少年に死刑が下されるというこの国の厳罰化の風潮が悲しくもありました。

マスメディアはこの事件の本質をとらえようとすることなく、被害者の強烈な個性や、弁護人の主張のおかしさに焦点を当てることばかりに終始しており、なんとも残念であります。

そのためか、被告を絶対に死刑にしろという、陳腐な世論が形成されたような気もします。

本村さんは応報感情は満たされ、納得がいったと会見で述べておりました。しかしながら、被告が反省をできなかったというのが、この満点の判決をして彼に影を落とさせしめているのでしょう。


国民全体が、責任ももたずに裁判官気取りになって感情論を展開させているのは危険なものだなあと感じます。弁護人を含め、当事者は自分の立場で発言をするわけですが(裁判の性質上、それが第一義的であるのは止む終えません)、第三者が応報感情を持つべきものではありませんし、事件を社会の一部として冷静に捉える責任があると思います。

誰もが被害者にばかり注目をし、加害者に注目をよせないのは何故でしょう。思うに、本当の闇というものを理解したくないからなのではないでしょうか。

私が加害者の多くを知ることはないのですが・・・彼は、幼少期から父親の虐待を受け、母はその影響で自殺し、事件後は刑務所の中で心の成長が停滞したまま27歳を迎え、死刑囚となるという事実があります。

この彼を見ていれば、彼も社会の中の被害者に違いないわけであります。事件の一瞬において加害者になってしまったのでしょうが・・・。


一つの事件には、確かに加害者がいて被害者がおります。しかしながら、それを社会全体に広げてみた時に立場が逆転することさえあるのが人間の世であります。

時間軸の一点だけの議論をして、人間が形成する社会正義は成り立たちません。ですから、事件の前後関係を通して情状酌量になることもあれば、今回のように反省がないとされるケースもあるわけです。

全体のバランスを最大限に考慮し、裁判のルールとされる「平等」が定義されてきたわけです。マスメディアによって取り上げられたから、本村さんが可哀想だからといって、容易に今までの平等を崩すべきものかどうかは議論の余地を残すのです。

また、この18歳と30日の元少年を死刑にする今日の日本国家が優れたものであるのか?と問いかけた時、どのように答えましょう。少年とそれを取り囲む弁護団を「鬼畜」と称し、己の正義感のみを振り回して悪を退治できたと満足したところで、社会の何かが変わるのでしょうか?

もし、国民の多くが抱いていた不快感の一掃をこの判決に期待したとするならば、なんとも民度が低い国家であろうかともいえます。少年を死刑に処さなければいけない我が国の秩序に恥を覚えねばなりません。

それでももし、この元少年をどうしても死刑に処さねばならぬのなら、このような少年を生み出さぬために、国家はもっと努力しなければならぬでしょう。その国家を作る国民は、この事件が終わったから忘れるというのではなく、何か努力や意識改善をすべきでしょう。

それこそが本当の正義であるでしょうし、この裁判の判決の最大の意義につながるのかもしれません。


複雑な家庭環境を持つ子供は、この元少年に限りません。その意味において、この少年をただ死刑に処しただけでは、将来に対し何の解決も生まないわけです。

また、彼が少年院ではなく拘置所に入れられたことによって更生プログラムの適用を受けられず、人との接しあいの少なさから、罪を正面から受け入れられなかった事があるのかもしれません。

人は人と接して心を成長させるしかないのですから。

もし、少しでも心が成長すれば、本村さんへの謝罪が心から出て、被害者ももう少し心の角が取れたのかもしれません。たとえ、無期懲役であったとしても、本村さんは納得したのかもしれません。


一つの裁判には、被害者がいて、加害者がいます。その中で導き出された今回の死刑という結果は、応報感情に応えるものであり、その意味で妥当なのかもしれません。

自分が裁判官を任されれば、同じような答えを導いた可能性が多くあると思います。


ですが、この死刑判決の意味は、本村さんが言うように厳粛に受け止めるべきものであるのです。国民は、当事者ではなくそれを全体で監視する第三者なのですから。

本村さんが、なぜあの会見で厳粛に受け止めるといったかと言えば、裁判が終わったと感じたからでしょう。当事者である自分を越えて、ひとりの日本国民の立場で、「厳粛」にという言葉を使ったはずであります。

本村さんを含めた被害者家族の9年の思いが通じたことに喜びを感じるとともに、被告を含めた三人の犠牲者が生まれてしまったことに対する悲しみと、彼らに対する深い愛情を見せなければならぬはずです。

考え方の違う人間を簡単に排斥してしまおうというこの風潮が、昨今の救えない人々を多く生んでいるような気がします。

「嫌い」、「生理的に合わない」などと言ってしまえば、それはその人に対する無関心を生み出すだけであります。人への無関心が、犯罪を生み、猜疑心を生みだしているのです。

それを「自由」という言葉を使って容認しようとする昨今の世相が恨めしくあります。
悪は確かに存在するものでしょうが、それは特定個人に宿るもので自分に宿るものでないと思っているとすれば・・すれ違いの世の中なのでしょう。

以前から云っていることでもありますが・・・元気がなさそうな人を見たら優しくしてみましょうよ。少し気が触れてしまっている人を見かけたら、勇気をもって話を聞いてあげましょうよ。それは、社会に住む我々の役目の一つではないかと思うのです。

誰にも潜む弱さを救いあげるために。

考える事を放棄し、一件落着としてしまうようであるならば、この死刑判決は本村さんも言う三人の「犬死」を生むだけでありましょう。

国が感情多寡な年頃の子供たちに対してもっとしてあげらる事はないでしょうか?共存を教えるはず教育や学校施設は、その役割を本当に果たしているでしょうか?何より、社会の大人たちが胸を張って、人に関心を持って生きているのでしょうか?

今回の判決は、裁判員制度を見据え、関心を寄せている国民のひとりひとりが何かを問われたものであったのではないでしょうか?判決が忘却であって良いはずはなく、次のステップへの始点にならなければなぬと思うのです。


ミスチルの「タガタメ」という曲は、誰がため?という問いかけだそうです。
闇の多い社会を、なんとかして良くしていこうと思う心は・・・誰がため?と言えなくもないのですが、私自身が一つの回答するならば、自分の大切な人々の幸せを守りたいがためと考えるようにしております。

自分は自分、他人は他人・・・で良いならば、人を裁き、人の境界線に線を引くことが・・・正義であるとするならば、そんな人類の叡智や勇気は虚しいものでありましょう。

違う事を認め、他人の心に自分を作っていく、自分の心に他人を作っていくという作業が、人間の智勇でありましょう。

そんな事を考えながら、学校に、会社に行けたのならば、社会がもう少し優しくなれるのではないかと・・・相変わらず 性懲りもなく 愛すこと以外にない・・・
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ユメクイ

ユメクイ 作詩:愛 作曲:愛

僕は今夢旅の中
あの星の島までも飛んでゆける
手のりウタうたう僕のユメクイ
君のそばにも辿り着ける

最初に描いた夢を
思い出せなくなったのは
大人になったから?
右か左かでいつまでも迷って
太陽が反転するまでしゃべりこんだ

一つだけポケットに入れてきたもの
おっきなこの愛を持って

僕は今夢旅の中
あの星の島までも飛んでゆける
手のりウタうたう僕のユメクイ
君のそばにも辿り着ける

カラフルな靄(もや)に心を奪われ
ちょっとしたことにつまづいた
すりむいたとこに君がくれたのは
はずかしいくらいの
可愛らしいばんそうこう

叶えるたびに食いつくすユメクイ
叶えるたびにまた夢を見る
いくつになっても

僕は今夢旅の中
寄り道してプレゼントを見つける
手ノリうたうたう僕のユメクイ
描いた未来に君がいつもいる

僕は今夢旅の中
あの星の島までも飛んでゆける
手のりウタうたう僕のユメクイ
君のそばにも辿り着ける

君のそばでずっと夢を見る



大塚愛主演「TOKYO FRIENDS」の主題歌に使われたのがユメクイです。
http://mora.jp/package/80307944/AVCD-31022/

この映画自身に関しては、あまり出来の良い映画とは思っておりません。しかし、この映画に登場する、若く苦い日々、そして背景のアメリカのダウンタウンの町並みというものが、自分のシカゴ時代にダブるところがあり、この歌には少なからぬ共感を覚えます。

昨年度、僕は弁理士試験に挑戦したのですが、残念ながら二次試験落ちを経験することとなりました。できが良いとは思っていませんでしたが、正直なところで言えば自分が落ちるとは考えておらず、それを知った時の落胆はひどいものでした。

思いが大きければ大きいほど、それが叶えられなかった時の反動は大きいものです。物理学では作用反作用の法則などといいますがね。

しかし、どんなに落ち込んだとしても、人間は次の希望と夢に向けて立ち上がるものです。それが動物には叶わぬ、人間の美学ではなかろうかと思うのです。

このユメクイという歌は、実にシンプルな歌です。ですから、普段であればこの歌から強い何かを僕自身が感じる事はなかったかもしれません。

ですが、あの落胆を受けていた時の自分にとっては、この歌が眩しいほどの純粋さで心に響き、そして自分を勇気づけさせてくれたのです。今までもずっと、立ちあがって来たぢゃないかと・・。

思い返してみればここまでの道のり、自分の未来を切り開き、挑戦を続けてきたんだよなと思っております。まさか、自分がこのように生きていくとは、昔の自分は想像していなかったわけで・・・”ユメクイ”が僕の中に登場していなければ、何一つ達成し得なかったのかもしれません。
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