三歩進んで二歩下がる

日々感じた事の言葉日記です。

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支えるという事

支えるという事

僕は土を集めてきて、そこに種を植えた。
僕は一生懸命にして、添え木をあて、水を与え。

せっかく顔を出した芽が・・ご機嫌を損ねぬよう。
せっかく上を向いた茎が・・倒れてしまわぬよう。
せっかく力を蓄えた蕾が・・潰れてしまわぬよう。

僕は土を集めてきて、そこに種を植えた。
僕は笑顔と歌声と共に、添え木をあて、水を与え。

君が力強く芽吹くよう・・祈りながら。
君が雨にも風にも負けぬよう・・応援しながら。
君が素敵に笑顔を向けてくれるよう・・期待しながら。

僕は鼻歌を歌う。

この世がどうにも自分の思い通りに進まぬ事を嘆きつつ。
この世がどうにも不思議に満ち溢れた世界である事を心に抱きつつ。

支えるという事は、泥まみれの顔をしながらも、鼻歌を幸せそうに歌う事。


ryo


日が陰り、少し涼しくなり始めた夕暮れ時
事務所の近くの東新宿の駅を通り過ぎ、
早稲田大学の理工キャンパスまで足をのばす。

昔、何度も何度も歩いたこの明治通り・・
あの頃に比べると、気持ち涼しげな通りになっていた。
原油高のせいなのか・・車が少ない気もする。

学生の頃、この道は地下鉄工事でよく車線規制がされていた。
だから、車も人も行きずらそうにしていて、
この道はぐちゃぐちゃとごった返していたのだ。

大学院にいた頃、週に何度も通った馴染みの店があった。
僕は何年振りかにその店の暖簾をくぐり、店に入っていく。
あの頃と同じように・・店は大学院生が占めている。

壁にぶら下がっているメニュー札は何も変わっていない。
違いと云えば、ブラウン管のテレビが液晶テレビになっていた位だろうか。
足を少し引きずり加減の・・店のおばさんにも変わりはない。

僕の顔を見て、おばさんんは黒眼を大きくする。
僕は少し笑ってみせて、そして、急に気恥ずかしくなって下を向く。
社会人の体をした僕は、あの頃と違うのである。

アメリカの食事に慣れなかった頃・・
あの店の回鍋肉が何度も頭に現れ、記憶が舌にその味を伝達しようとしていた。
海を渡ってでもその食を再現したいなぁなどと考えもした。

だのに、日本に帰ってきて、僕はすぐに筑波大へ行き・・
というのも、早稲田の理工キャンパスに研究室が無くなり、
その機会を失っていた。

それでも、あの店に行く機会はたくさんあったはずで・・
あの味を懐かしむことを忘れていたこの数年であり・・
今日はあの味を取り戻しに、僕は店に向かったのだ。

僕はメニューも見ずに回鍋肉を注文する・・
おばさんはそれを始めから知ってか、僕の注文なんぞ聞くそぶりもなく、
何年振りかしら?研究室に戻ってきたの?と問いかける。

なぜだか・・僕はうまく返答ができず、ただ首を横に振った。
近くで働いているの?ぢゃ~また来てくれるのかしら?
僕は苦い顔を作ってしまった。

店の客の半分は回鍋肉を頼む。
回鍋肉の味は、昔と比べて塩気が強かった。
親父さんの腕が変わったのか、僕が変わったのか・・

あの頃と同じように、額から汗が噴き出る。
おばさんは、すかさず水のお代わりを持ってきてくれる。
僕は何故だか・・無口の笑みを返してしまった。

回鍋肉を食べ終わって気づいたのだが・・
僕はお金を持っていなかった。
学生のときでさえそんな事はしなかったが。

おばさんにお金をおろしてくることを告げると
次来たときでいいから・・あ、でも、もう来ない?
僕は再び苦い顔をした。

お金をおろして、おばさんにお金を渡す。
この味がずっと忘れられなくてきちゃった・・そう告げると
ぢゃ~また来てねと・・おばさん。

陸奥飯店を出ると、大きな雲が右の空と左の空に厚く折り重なっていた。
その間の僅かな隙間は赤紫に染め上がっている。
あまり見たことのない模様の空だ。

その空の下を僕は歩きつつ・・また来ると言えなかった自分に反省する。
目の前には、新しくできたばかりの西早稲田の駅が顔を出す。
構内の新しい建物の匂いが鼻につき、僕は三度苦い顔をした。



今日、志望していた出光興産の内定を頂きました。
まだ条件提示を受けていないものの、気持ちの中では決めてしまうつもりです。

事業所は姉ヶ崎にあるため、東京からは少し離れることになるわけですが、
それはそれで良いのかもしれないなぁ・・と思うようになってきました。

ついこの前まで、六本木で働いていたわけですが、あまり良いことはなかったように思います。
大事を為すために、今は一歩一歩力を蓄えようかと思っております。
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知の挑戦

「知は絶望をもたらし、無知は希望をもたらす。
知は創造と抑制を与え、無知は想像と自由を与える。」


梅雨が明け、夏がやってきました。
からっと晴れるわけでもなく、ムシムシと本当に過ごしにくい日々です。

知り合いの事務所でちょっとしたお手伝いをしつつ、就職活動に再び励んでおります。
ようやく二次試験が終わり、溜めこんでいた本を読み漁っているののですが、
埋め切れない時間というか・・心の隙間というか・・そんなものが幾分かあるようです。

経済紙等を読みながら・・世の中の動きを思い描き・・ふと前職の会社を思い出し・・
社会とは”?はてな?”なものだなぁ・・と苦笑しております。


サブタイトルに「無知の幸せ」として、数年前からちょっと難し気なブログを書いているわけですが(笑)
その一節を少し抜粋したいと思います。
「人生が期待する私(遠き君への涙)」

人間誰しもが醜い部分を昇華できないわけであり、それを補うための演技もなすすべなく、人を傷つけあってしまうであろう。相手の悲しみが自分の痛みのようにわかってしまったならば、その度に心労を受け、その度に時間を浪費し、疲れ果てなければならない。社会の裏側を知ったらどうだろうか?それは幸せであろうか?違うのである。われわれは知る事ができないからこその幸せというか、生があるのであり、その幸せに気づくためにも今日の知的欲求があるのであり、知ることを止めずに、果敢にそれに挑戦するのであろうと思う。そして知ることからの痛みが、人に高貴な涙を流させるのである。




先日、実家で寝転がってテレビを見ていると、テレフォンショッピングが始まり・・
強力な掃除機が商品で、その掃除機は布団についたダニも綺麗に吸い取れるということを宣伝しておりました。

蒲団を外に干せばダニは死ぬのですが、その死骸は放置されてしまいます。
だから掃除機で吸ってあげないと・・ということで、掃除機をかける前の「before、 after」が
顕微鏡の絵とともに出てくるわけです。

それを見たMCは、あんなにダニがいっぱいあって!と悲鳴混じりの声を出し
こんなの耐えられませんねと言うわけです。(そりゃ販促ですから)
確かに、あのケバケバのダニを見てしまうと、私だって嫌なものだなと自分の布団を見つめてしまうものです。

ですが、そんな事を一つ一つ気にしていたら誰も地球には住めなくなってしまいましょう。
梅雨の室内であれば、カビの空気をたくさん吸うわけでありますし、
夏がいくら暑いといっても、黴菌だらけのプールには入れないし、海なんてもっての外であります。


同じように、他人の頭の中を簡単に覗くことができてしまえば・・・
誰も信じられない!といった不信感あふれる世の中になることでしょう。

特に、政治家たちの考えていることが映像越しに映し出されでもすれば
政治は崩壊し、国家も社会も崩壊してしまうのかもしれません。

その意味で、知は絶望であり、無知は希望であります。

では、どうして知に挑戦し続けるのか・・・


そんな問いを自分にしてみたとすれば・・想像を創造に変えるためなのかと思います。

どんなに願ったところで、今更自分は20歳に戻れるわけではなく、
ただただ、想像に甘えているだけではいけないからです。

ダニの死骸が自分の布団にもいっぱいいるなんて・・知りたくなかったなぁと思っても今更遅いものです。

生きている限り、知に挑戦していく事は自分を創ることであり、他人を想うこと・・なのかと思います。



世の中には、知をいろいろな形で放棄している人もいると思います。
知の放棄は当然ながら個人の権利でもあります。ただ・・

そうであるならば、無知の幸せということを伝えたく思います。
知らぬということは幸せであることで、逆に、知るということは辛いことを伴うのだと。

アメリカのスラム街に遭遇すれば、世界の不公平が頭を巡るわけですし、
南米の貧困の様子を知り、アメリカのしてきたことを知れば、日本の立ち位置を再考せねばならなくなります。

そんなグロバールな事でなくとも、身近な人が抱えている苦しみを理解してしまえば、
何もしない事への自責の念も生じることでしょう。


人間はいつだって天秤棒を持って歩き、自分の水平感覚をとりながら歩いている生き物です。
三半規管がおかしくなれば、真っ直ぐ歩けなくなります。

知るということと、知らぬということを天秤棒からぶら下げて
バランス感覚を持って進むことが、自由に溺れないための生き方ではないかと思うのです。

誰だって矛盾を抱えて生きるわけですが、
矛盾に目を瞑ってしまえば天秤棒も持っていられやしません。
矛盾とうまく付き合っていくことこそ、バランス感覚を養う術なのでありましょう。


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信頼

「信頼の代償は、求めすぎるあまり厳しくなること」


あれほど信じていたのに裏切られた・・・
古今東西、よく言われることです。

カエサルの明言「ブルータス・・お前もか」

私自身、信じるということは自身の責任ですから、一度信じたのであれば、信じた相手を罵るのは筋違いとも考えています。

信じるということの甘美性が強烈な香りを放つのも、信じるという行為の極限的人間性にあるのかと思うわけです。

人を人と思わないような人ほど、裏切るという行為に敏感になるのでしょうし、他人の裏切りという行為を許せないでしょう。

許せない故に、自分が信じたという責任を、相手の裏切りという非倫理行為に転嫁するのです。


とはいうものの・・・

人を信頼すればするほど、人に甘えるものでありますし、
人が自分をよく思っていると信じれば信じるほど、人のその想いは当たり前のものとして平然と構えるようになるものです。

自然、この人ならばこうしてくれるはずだと求めが高くなっていくようでもあります。
あの人は、自分のことを知っているはずなのにどうして・・?と。

外国に行くと、外人の失礼があまり気にならなくなったりします。
しかし、そんな中で遭遇した日本人が同じようであると途端に不愉快になります。
日本人なのにどうして・・?と。


ふと自分の身の回りを考えてみます。
自分と距離感を持っている人に対しては、存外に優しくなれるものの
近い距離にいる人に対して、それらを忘れてしまう事があります。

距離感というものが大切だなぁと感じる一方で、
人に厳しすぎる視線を時に送ってしまう自分がいることが、反省であります。

期待の裏側だと言ってしまえば聞こえは良いのですが、
自分の甘えも大きいのだと思います。


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