三歩進んで二歩下がる

日々感じた事の言葉日記です。

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記憶

記憶

君の記憶に僕は生きている。
君の記憶があの頃の僕を証明する。

もし君がいなくなってしまったら、
誰があの時笑ったことを振り返ってくれるのだろう、
誰があの時泣いたことを振り返ってくれるのだろう、
誰があの時怒ったことを振り返ってくれるのだろう、
誰があの時感動したことを振り返ってくれるのだろう。

もし僕が僕でなくなってしまったら、
誰がらしくないよと言ってくれるのだろう、
誰がちょっと疲れているのだってわかってくれるのだろう、
誰が僕の大好きなカレーをさりげなく用意してくれるのだろう、
誰が元気な頃の僕の思い出話を語ってくれるのだろう、
誰が僕のために目に汗を浮かべてくれるのだろう。

そうなんだよ、君は大切なんだ。
だって、僕のかけらを君がしっかり握ってくれているのだから。
だから、今日もこうして笑っていられる。
だから、今日もこうして希望を持っていられるんだ。

君の持っているかけらが、僕を肯定し、
君自身が、僕を強くしている。
「顔が丸くなったね」と、苦笑いしてくれる君の中に、
僕はいるのだね。


ryo


最近になって、人が人に生かされているのだという事に、改めて気づくようになりました。
人に生かされてきたのだと、恥ずかしながら初めて気づいたのが、アメリカにいた頃であり、
この詩を書いた頃であります。
最近の考えは、また少し違い・・・


近頃思うのは、自分の成果というのは、誰のためにあるのか?
といった内容であります。

その成果は、自分のためのものではありません。
会社であれば、その成果は、会社のものであります。
そのような会社の成果は、社会のものであります。

翻ってみれば、自分が守りたい人々が社会には存在し、
彼らの存在を守るために、自分は成果をあげるのです。

その意味で、自分はまず会社に(組織に)生かされなければ・・
成果をあげることすら、守りたい人々を守ることすらできないのでしょう。
自分の結果を結実させる人が(組織が)あってこそ、自分は何かを出来るのであります。

自分の成果が認められることがなければ、それは独りよがりの成果でありましょう。
しかし、それを成果と呼ぶのはどうもお粗末であります。
成果は、人に伝播して初めて更なる大きな成果に結びつくのであります。
人に利用されなければ、成果は結果にしかならないのです。


この事は、何も会社に限ったことではありません。
一つの家族が生きていくためには、自分が相手を必要とし、
同時に必要とされなければならないわけですから。
必要とし、必要とされるから成果は結実するのです。

たくさんの「君」の中に、僕は生きているはずです。
その「君」たちに、僕は生かされているはずです。
だからこそ、頑張ろうという気持が萎える事がないのだと思います。


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嫌い

「嫌いに得るものはなし」


嫌いという言葉は、物事を無為に一刀両断する言葉なのだろうと思います。
有無を言わせないのが「嫌い」の特徴でもあります。
敢えて言うならば・・「嫌い」という言葉が僕は嫌いでありますし、
この言葉を極力避けるようにしております。
「苦手」・・なんて言葉を使って。

--------

現代人の価値観の多様化、なんていえば聞こえはいいが、
要はみんなの好き嫌いが激しくなっただけのことかもしれない。
何も確かなものが見当たらないように見えるこの時代に、
好きか嫌いかだけは大声で叫べるのだ。

「だってすきなんだもん、しょうーがないじゃん」
「嫌いなものは嫌い、わたしはあんなのゼッタイいや」

しかし好き嫌いなんて、そんなに胸張って言えるようなことだろうか。
少なくとも「ゼッタイ」なんて使わない方がいい。
好き嫌いほど、一見確かそうに見えて、その実いいかげんなものはないからだ。
死ぬほど好きだったあの人を手のひらを返すように遠ざけたり、
嫌っていたはずのパソコンのとりこになったり、見苦しいことはなはだしい。
好みは、変わる。変わるから人間なのだ。
そんな自らのあいまいさ、いいかげんさを見つめる事なしに、
無邪気に好き嫌いを振りかざして世界を切り裂いてく姿は、あまりに悲しい。

とりわけ「嫌い」はたちが悪い。.
ものであれ、人であれ、嫌いの一言で切って捨てる。
だってしょうがないじゃん、あの人、生理的にあわないのよ、などといってのける。
嫌いに理由なんかない、相手のせいだと思っている。

ところが、実は嫌いに理由はある。対象が人の場合なんか、
多くは自分自身の嫌な部分を相手の中に見て、嫌っているのだ。

「あいつ、自分勝手だから嫌いなんだよ」

というその本人が、相当自分勝手だったりする。
目立ちたがりは、目立つやつを敬遠し、おしゃべりはおしゃべりを軽蔑し、
偽善者は偽善者攻撃する。
なんのことはない、自分を責める代わりに、他人を嫌っているだけのことだ。
そうして世界は切り裂かれ、ばらばらになっていく。

人を嫌うのも人から嫌われるのも、大変なエネルギーがいる。
まったくもって非生産的な無駄なエネルギーだ。
「嫌う」だなんて疲れることを始めるなら、
せめてそれを嫌な自分を見つめる好機にしたらいい。
自分もまた偽善者だったと気づいて、むしろ偽善者同士、
共感を持ってつながる道がきっとあるはずだ。
自分の嫌な部分を見つめることで、「嫌い」を昇華する道が。

嫌いな人に鍵がある。本当の仲間は、「好き嫌い」の向こうにいる。

「嫌う」

星言葉星言葉
(1997/01)
晴佐久 昌英

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僕の10代は「嫌い」のオンパレードでありました。
人を嫌いになる事はなかったのですが、とにかくいろいろな「物事」が「嫌い」でありました。

「嫌い」は・・自分の中にある「嫌い」の壁を克服することの放棄を意味します。
でもそれでは「怠慢」のレッテルを張られてしまうので、
「嫌い」の理由を外側に求めるのでしょう。

英語嫌いの僕が高校時代によく言っていた台詞は
「何で日本人が英語の勉強をしなければいけないんだ?俺は日本人だ・・・」

そんな理由を立てて、英語を勉強しない自分を許容しておりました。

しかし、好きな物理をやっていたら、英語を勉強しないとどうし様もなくなってしまい・・
教科書、論文、装置の取扱い書等はみんな英語ですし、プレゼンなんていうのも、
大学4年時から全部英語になってしまいました。

自分の物理をやるのには英語が必要なので、
修士になってようやく英語の勉強を始め・・(笑)

アメリカに行った最初の半年は話せないことによる苦労の連続でありました。
英語ができなければ、まず僕の物理学が疑われました。
ほとんど相手にされない状況が続き、煮え湯を何度も飲まされ。
(物理や努力だったら、こんなやつらに負けないのに・・
どうしてこうも馬鹿にされるのか)

生活をやっていく上でも、家を借りる事がまずできませんでした。
公共の手続きでは人の何倍も時間を取られ、
物を買うにもコツがわかるまではよく騙されたものです。

誰も相手にしてくれない・・助けてくれない・・
英語が嫌いだから使わないでは、何も始まらないわけです。

原因不明の病気になったとき、もう辛くて辛くて・・
適当な病院を探して一生懸命に症状の全てを、
自分の全英語力を駆使して喋ったことを今でも記憶しております。
それでも、まともに病院の診察を受けられたのは、発症から二週間後のことでありました。

高校時代、何で「嫌い」の一言で英語を済ませてしまったのかと・・・。


コンピューターも嫌いでした。
あの真っ暗な画面に英語がハイスピードでスクロールするのがどうしても嫌いでした(笑)。
でもそれでは、やっぱり自分の物理解析ができなかった・・
だから嫌いでよくわからないプログラム言語もすべて独学で学習して。

本も嫌いでした。本を大量に読み始めたのは、25歳を過ぎてからでしょう。
本を読むようになって、自分が随分と豊かになった気がしました。
いろいろなものに感動出来たり、共感ができるようになったのです。

世の中には、こんな事を考える人たちがいるんだ・・。
政治に興味を持ち、経済に興味を持ち・・歴史の勉強をし直し。
本を読む自分が生まれなければ、前職のコンサルタントに足を進める事はなかったでしょう。


思い起こせば、掃除も洗濯も料理も嫌いでした。
「嫌い」な事をちゃんとできなければ、感謝の気持ちもなくなると思って始めたのです。
いつかお嫁さんをもらっても、相手がやってくれる事をきちんと理解しなければ、
相手を大切にできないだろうと・・。

その頃は、嫁に家事の全てを任せるつもりだったのでしょうね。
そうであれば、昔の男性のようにもっと早くに結婚しているのかもしれませんが(苦笑)、
やってみたら意外と楽しく、自分ひとりで生きられるようになってしまいました。

今やっている法律なんてもっての他、ばっちり「嫌い」だったわけです。
法律のロジックなんてのは、所詮人工物にすぎないわけであり、物理学の足もとにも及ばないと・・

自分には、数字と数式があれば良いと思っていました。
あと、適量のお酒と・・(笑)


あの頃の「嫌い」を貫き通していたら・・と思うとぞっとします。
「嫌い」だからといって、その壁に取り組まなければ、今の自分はどこに行っていたのかと思います。

「嫌い」というのは、自分の可能性を縮める行為です。
「嫌い」には根拠がないから見苦しい。
晴佐久神父が「星言葉」の中でも言っておりますが・・
根拠がないから容易に嫌いは好きにひっくり返りますし、好きが嫌いになります。

それほどにもいい加減であるような感情なのに、
人は「嫌い」を使い間違って、自分の人生の可能性を縮めるのです。

「嫌い」を一度使えば、人生はどんどんと狭いものになっていきます。
なぜならば、年を積み重ねる事によって「嫌い」は剛直化していくものですから。

「嫌い」の一言が、好き嫌い地図を黒で塗りつぶしてしまう。
どんどんとその地図が黒に塗りつぶされてしまえば、
残っているのは自分の手が届く範囲の狭い土地だけです。

人を嫌いになれば、人からも嫌われます。
自分の手の届く人、理解の届く人だけとしか付き合う事ができなくなってしまうのです。
そんな人達でさえ、嫌いになることがあれば、さらに視界は狭くなるのでしょう。

嫌いだなと思った時は、その自分を僕は反省することにしております。
何で、嫌なんだろう?・・何の事はなく・・ただ面倒臭がっているだけなのです。
それを克服すれば、自分の知らない世界が待っているかもしれないというのに。

そう思っていると、やるべき事がたくさん出てくるわけです。
苦手だなぁ・・と思っている人に、思い切って声を掛けてみたら、
それが一生の友になるかもしれません。
たとえそれで仲良くなれなかっとしても、
その人から自分の感じたことのない気持ちを教わる事があるかもしれません。

嫌いに得るものはないんです。
でも、嫌っている事に得るものは詰まっております。

自分の人生が、いつでもそんな「嫌い」の克服の旅であって欲しいと願っております。


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