三歩進んで二歩下がる

日々感じた事の言葉日記です。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |

豊かな愛を

「好きというのは

その人がもつ絶対的な美的センスの反応である」


「愛するというのは

一己の独立した人間の持つ弱さへの格別超越した情なのである」


(ref : 旅で考えたこと(8・12・2006))


試験を2週間後に控えまして、焦りの日々であります。。


30歳を迎え・・何をどのように考え、どうしたら穏やかに生きられるかと考えます。
その中で、何を面白く、生きがいを感じて、そしてそれを人に与えられるのか・・・?

最近、何か自分が不安を抱えて生きているような気がいたします。
人生の羅針盤について深く悩まずにきた20代でありましたから、その反動なのかもしれません。

人間の正念場なのだろうなぁ・・30代というわけでございます。


穏やかに生きるためには、おそらく今以上に愛するということを心に育てねばならぬでしょうし・・
面白く楽しく生きるためには、コントラストの効いた好きを見つけねばならぬのだと思っております。


「好き」というのは、そこに感情量をただ流しこむだけで良いものであります。「嫌い」も同じです。コンクリを作るのに、対象物の型にセメントを流し込む要領です。

良いものを、波長に合うものを一つ見つけ、そこに一方向で働きかけるのです。

「愛する」というのは、他人を自分の心に作るという所作だと考えます。
他人を自分の心に作り、他人の痛み、喜びを自分のものと同化させるような作業です。

一瞬にして、一日にしてなるものではなく、時間をかけ、大事を思い、感情の起伏を乗り越えて形作るものなのだろうなぁと想像します。


西南戦争における増田宋太郎の西郷隆盛への気持ちです。


「吾、ここに来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」

西郷を取り囲んだ薩軍と、政府軍の私闘とも言われた西南戦争に引き込まれた、増田宗太郎率いる中津隊。彼らは薩軍が壊滅的である以上撤退を決め込むわけです。

しかしながら、西郷に接してしまった増田は、西郷の愛情の深さに触れ、そして西郷が死ぬならば、自分も共に死のうと、一人隊を離れ、薩軍に合流しようとするわけです。

西郷が輝きのみをもって明治を生きていたならば、このような人の愛情を受けなかったのでしょう。


人の弱さをくみ取る気持ちが、愛情という、動物の本能(好き、嫌い)とはかけ離れた・・・
人間を人間たらしめる温もりを作っていくのだろうと想像するのです。まさに、人間の素晴らしさなのかもしれません。

ですから・・素敵な年の取り方をするというのは、人の弱さや人の欠点に対し、温かみをもって視線を投げかけゆくことにあるような気がしております。

世間を見渡していると、そうした所作をおろそかにして老けていく人々がおり、
そういう人に限って、往年の覇気や行動力を失ってしまったら何も残らず、愚痴の多い人生、批判の多い人生を歩んでいる気がします。

好きで好きで付き合い結婚したのに冷めてしまい離婚することになるなんて話を聞きますが、相手を自分の心に作る事ができず、相手の欠点に優しくなれず・・・そんな愛情を育めなかったのかもしれません。


私が以前蕎麦屋の出前というアルバイトしていた時のことですが・・
そこの家族が本当に素晴らしく、愛情に溢れ、いつも心に花が咲いているようでした。

お父さんもお母さんも、おばさんも・・笑顔が良く、言葉が優しく。
愛情を育んできた人というのは、こういう雰囲気を作るのだなぁ・・と、まさに生き方の大切さを学んだ気がいたします。


好きという感情は、掛け算割り算でありまして、突如ひっくり返ったりするものです。10という数字に、-1を掛けただけで、-10になるようなものです。3を3回かければ、27になります。

嫌いという感情も同じで、-10だったものが、-1をかけることによって10に生まれ変わるのです。素晴らしいと言えば素晴らしいですが、いい加減と言えばそれまでであります。

愛情という感情は、常に足し算引き算です。毎日毎日1という数字の積み重ねです。ひどい事があっても、途端に消え去るようなものではないのです。家族が家族である所以でしょう。

一方、無関心というのはひどく、何があっても、0です。そこから何も成長しないのです。この世の最大の敵は無関心であると思います。無関心が人を孤独にさせ、孤独が更なる無関心を作っております。


とかく無関心を貫くわれわれがおります。

人に干渉することを恐れ、こんなに狭い所に暮らしているのに、隣の人の顔すらも知らないで生きております。

マンションでパタリと会って、「こんにちわ」と声をかけても不審がられます。会社の廊下では目線を合わせないようにしようとする人々でいっぱいです。

テレビでは、無駄なお笑い番組ばかりが栄えており、世界の悲惨な状況を伝えません。

チベットの惨劇、ダルフールでの殺戮、アフガンやイラクでのテロの実態、アフリカや南米の貧困・・・
人の心や叫びは届かなくとも・・想像一つする事はできるはずだと思うのですが。

アメリカで二年間過ごしていた時に、そのような警戒心を持つことはありませんでしたし、みな、いろいろな事、専門外のことに興味を持っていたように思います。


偶然に目が合ったその人に投げかけられる笑顔を大切に・・・
知らなかったことへの関心を大切に・・・
大事な人ではなく、大事な想いを大切に・・・

知っている人への笑顔を、知っていることへの関心を、大事な人を・・
それら大切にするのは、子供でも分かることで当たり前のことです。

当たり前でないものを知り、それを大切にすること初めて、当たり前のありがたみを知り、それを大事にすることができるのだと思います。

見知らぬ人だから優しくできないという心は・・不安定な心です。
大切な人だけにしか優しくできないという心は・・成長のない心です。


無関心を是とし、自己完結を追いかけてばかりいると、「ギブアンドテイク」にたどりついてしまう気がします。

この点、自分自身で意識を強く持っていないと、素敵に生きることも老いることも成長することもできないもんです・・そう自分に言い聞かせるものの、なかなか難しくあります。

日々、一歩一歩。三歩進んで二歩下がる。
スポンサーサイト

言葉 | コメント:2 | トラックバック:0 |
<<晴耕雨読 | HOME | タガタメ>>

この記事のコメント

てるぞです♪
特に大きな事柄もなく、平穏な日々が過ぎていまして(笑)
言葉を返せなくってすみません。

入院をしてから、また今が一番人生の中で負荷の無い状態であるからなのか(笑)、以前よりも穏やかに人を想えるようになったかもしれないです。

存在しているだけで、奇跡的なことだなと。その息吹の美しさを、静かに愛おしく思えるというか。勿論、社会的に色々思うところなどもあるんですが(笑) それも母親のような気持ちで眺められたり、叱ったりして(笑)


"旅で考えたこと"、久しぶりに読み返しました。
ちょうど今、伊勢神宮にいってみようか考えているところで。
やっぱ出掛けちゃおうかな。。
2008-05-17 Sat 11:17 | URL | てるぞ #SFo5/nok[ 編集]
>てるぞさん

そうですか。
ほんとにほんとに良かった。

大局観というやつですかね。
一歩外からいろいろな事を見ようとして^^

ただ、時には一人の人間に戻り
腹を抱えて笑ってみてくださいね☆
2008-05-17 Sat 16:25 | URL | master #-[ 編集]

コメントの投稿















コメント非公開の場合はチェック

この記事のトラックバック

| HOME |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。